震災報道

震災はまだ収束してはいない。被災者の声を聞き、復興の力となる。そのための報道に終わりはない。 震災はまだ収束してはいない。被災者の声を聞き、復興の力となる。そのための報道に終わりはない。

震災から5年。被災地はまだ「現在進行形」であることを伝えねば。

2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源に、マグニチュード9.0の地震が起きた。高さ20メートルを超える大津波が三陸の沿岸部に襲いかかり、浸水面積は山手線の内側の9倍に相当する561平方キロメートルに達した。そして1万8,449人(2016年12月現在)が死亡、または行方不明となっている。
その「東日本大震災」が発生した当時、懸命な思いで被災地に入った記者たちは、想像をはるかに超える惨状と対峙した。ある記者は、絶望的な状況にぼう然自失となった。家族の遺体を見つけて悲しみにうちひしがれる人たちに、後ろから見守ることしかできない記者もいた。話を聞き出すことで、再び悲劇を思い出させてしまうのではないか。葛藤する記者たちに、多くの被災者が、重いはずの口を開いた。「このひどい状況を伝えてほしい」「あの日起きたことを知ってほしい」。今は亡き愛する人や仲間のこと、失われた住まいや慣れ親しんだ町並み、戻ることのない思い出について――避難所では、届いた新聞がむさぼるように読まれた。くしゃくしゃになるまで新聞が回し読みされた。背中を押されるように、「いま起きていることを、日本中に、いや世界中に伝えたい。伝えなければならない」と取材にあたった。連日、特別紙面がつくられ、複合災害の姿を伝え続けた。
インターネットにも震災の情報があふれた。なかでもSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の活用に注目が集まった。「Twitter」を介した安否確認や被災状況の共有に加え、避難所で不足している物品の情報発信は、

救難活動を支えた。一方、月日の経過とともに、インターネットの世界では震災の「風化」が目に見えて明らかになっていった。
あの日から5年。そこには、いまなお踏みとどまって取材を続ける読売記者の姿がある。あの日の現場に立った3つの支局の記者の多くは現在、東京本社の編集各部で働いており、多角的な震災報道を支えている。そのタスキを引き継ぐのが、当時はまだ学生だった若い記者たちだ。彼らは3・11の記憶を伝え、高台への集団移住や沿岸部のかさ上げ事業など、長期化する復興の報道を続けている。現在、岩手県の宮古通信部に在籍する若手記者の高橋も、現場で震災関連の取材に奮闘している一人だ。地震発生時は米国に留学中だった彼が、前任の先輩記者から引き継いで宮古通信部に着任したのは、入社3年目の2015年7月のことだった。

2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源に、マグニチュード9.0の地震が起きた。高さ20メートルを超える大津波が三陸の沿岸部に襲いかかり、浸水面積は山手線の内側の9倍に相当する561平方キロメートルに達した。そして1万8,449人(2016年12月現在)が死亡、または行方不明となっている。
その「東日本大震災」が発生した当時、懸命な思いで被災地に入った記者たちは、想像をはるかに超える惨状と対峙した。ある記者は、絶望的な状況にぼう然自失となった。家族の遺体を見つけて悲しみにうちひしがれる人たちに、後ろから見守ることしかできない記者もいた。話を聞き出すことで、再び悲劇を思い出させてしまうのではないか。葛藤する記者たちに、多くの被災者が、重いはずの口を開いた。「このひどい状況を伝えてほしい」「あの日起きたことを知ってほしい」。今は亡き愛する人や仲間のこと、失われた住まいや慣れ親しんだ町並み、戻ることのない思い出について――避難所では、届いた新聞がむさぼるように読まれた。くしゃくしゃになるまで新聞が回し読みされた。背中を押されるように、「いま起きていることを、日本中に、いや世界中に伝えたい。伝えなければならない」と取材にあたった。連日、特別紙面がつくられ、複合災害の姿を伝え続けた。
インターネットにも震災の情報があふれた。なかでもSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の活用に注目が集まった。「Twitter」を介した安否確認や被災状況の共有に加え、避難所で不足している物品の情報発信は、救難活動を支えた。一方、月日の経過とともに、インターネットの世界では震災の「風化」が目に見えて明らかになっていった。
あの日から5年。そこには、いまなお踏みとどまって取材を続ける読売記者の姿がある。あの日の現場に立った3つの支局の記者の多くは現在、東京本社の編集各部で働いており、多角的な震災報道を支えている。そのタスキを引き継ぐのが、当時はまだ学生だった若い記者たちだ。彼らは3・11の記憶を伝え、高台への集団移住や沿岸部のかさ上げ事業など、長期化する復興の報道を続けている。現在、岩手県の宮古通信部に在籍する若手記者の高橋も、現場で震災関連の取材に奮闘している一人だ。地震発生時は米国に留学中だった彼が、前任の先輩記者から引き継いで宮古通信部に着任したのは、入社3年目の2015年7月のことだった。

被災者の方々の経験から、未来に向けて命を守るための教訓を。 被災者の方々の経験から、未来に向けて命を守るための教訓を。

「私が宮古に赴任したのは、震災後5年を迎えるタイミングでした。先輩からの『被災者の声を丁寧に聞くことが大切だ』というアドバイスを胸に、とにかく自分の足で被災地を巡って住民と交流を重ねていくと、まだまだ復興へ向けて『現在進行形』であることを認識しました。ある時、取材でお会いした地元の店主の男性が『5年も過ぎれば、被災地のことなんかみんな忘れてしまうべ』とこぼされていて、そうさせてはいけないと、自分の仕事の使命を強く感じました」。
震災5年という節目を前に、高橋は「被災者が得た教訓を伝えることで、命を守ることにつなげたい」と、被害が甚大だった宮古市田老地区に暮らす、ある親子に取材を試みた。
「田老地区は、過去にも津波で被災しています。1896年の明治三陸津波、1933年の昭和三陸津波、そして2011年の東日本大震災。昭和と平成の津波をともに経験された女性がいると知り、ぜひお話を聞きたいと、その方を訪ねました」。
女性はすでに90歳を超えており、市の教育委員を務める娘さんに同席してもらっての取材となった。半生をうかがう取材は6時間にも及び、そのなかで興味深い話が次々と明らかになった。
「小学生の時に起きた昭和三陸津波で家族を亡くし、孤児になった経験から、津波を生き抜く教訓をしっかりと子どもたちに伝えていました。『地震の後は津波が来る。山に逃げたら戻らない』というシンプルな教えを小さい頃から叩き込まれていた娘さんは、震災時、校長を務めていた田老地区の小中学校で、その教えの通り学校にいた子どもたちを避難させ、一人も犠牲者を出さなかったとのことでした」。
昭和の津波を経験した母の教えがあったからこそ、平成の津波でも命を守ることができた。今度は、平成の津波で得た教訓を後世に伝えていかなければならない。昭和・平成の津波を生き抜いたその人だからこそ発することのできるメッセージを一人でも多くの人に伝えたいと、高橋は気持ちを込めて記事を書いた。
「記事が掲載された後、娘さんから『母の生き方を伝えてくれてありがとう。周りからも良い記事だったと評判です』と喜んでいただきました」。
宮古通信部で被災地と深く関わるにつれて、高橋は先輩記者たちが残してくれた財産を実感すると言う。
「被災地でお会いした方々から『被災直後に記事を書いて応援してくれた』と精力的に取材していた先輩の名前をよく聞きます。私も先輩に負けないくらい、地域に深く根ざした記者になりたいと思っています」。

これからも被災地に根づき、復興の姿を追い、社会に問題を提起し続ける。

宮古通信部の高橋のように、どうすれば被災地の力になれるのか、常に被災者と同じ目線で取材に奔走している記者たち。悩みを抱えながらも、口をつぐんで暮らしている住民は積極的に表に出てくることは少ない。しかし、高橋たちが実際に被災地で生活し、産業や教育の現場など、いたるところで日頃から住民と交流しているからこそ、本音を打ち明けてくれることもある。それを彼らは報じ続ける。
読売新聞は、毎月11日の月命日や毎年3月11日前後、総力を挙げて特集を組んでいる。特に、震災5年の節目に当たる2016年は、例年以上の紙面を割いた。津波のメカニズムや原発事故の原因など、イラストを多用して解明を試みた。さらに、当時の首長や関係者らの貴重な証言を集めて、真相に迫るインタビュー記事を掲載。そして、復興の進み具合にばらつきが目立ってきた被災地の現状を伝えた。
一方、3県の被災した家族の成長を継続して追い続けてきた連載[3・11の記録 家族]は、これまでに9回を数えた(2016年3月現在)。「高台には都市機能を集約した便利な住宅地ができつつあるが、古くからの知り合いに囲まれてきたこれまでの暮らしは失われること」「10万人近くが避難を続ける福島では、避難指示が解除されても故郷に戻っている人は少ないこと」「除染や廃炉までの長い時間を考えれば、復興へのハードルはさらに高いこと」。それぞれの家族の姿を通じて、そういった変化を浮き彫りにしてきた。さらに、被災各地で同じアングルからの撮影、航空写真の撮影を重ねる「定点観測」、「360度動画」などのデジタルメディアも駆使して、その歩みを伝えている。
被災地はまだ、「復興」という言葉とはほど遠い、厳しい状態にある。被災地と、東京や大阪などそれ以外の地域には温度差もある。風化が進み、記憶が薄れれば、復興の妨げになりかねない。また、人口減少や高齢化など地方が抱える問題が、被災地には凝縮されている。被災地での復興への取り組みは、今後、他の地方の政策の参考になる。また、近い将来、再び巨大地震が国内で起こる可能性も指摘されている。そうした万が一の事態に備える上でも、震災報道を続ける意味は大きい。
発生直後から震災報道に携わってきた地方部長の平尾武史は、こう確信している。「これからも被災地の戦いを書き続けること、記録することが、読売新聞の使命。これから現地に赴任するさらに若い記者たちも、被災者に助けてもらいながら、3・11の教訓を次世代に伝えてくれると信じている」と。

高橋 学

2013年入社。経済学部卒。盛岡支局を経て、2015年7月より宮古通信部に着任。主に震災関連取材に携わり、宮古市田老地区の定点観測企画「わが街」を執筆。震災5年を迎えた岩手の医療環境を伝える連載「震災5年 医療はいま」ではアンカーを担当。
(社員の肩書きは2016年10月現在)