読売新聞の 過去・いま・未来

scroll

これまで

現存する題号で最古の歴史を持つ読売新聞。創刊号から現在に至るまで、時代をどう見つめ、社会にどんな情報を伝えてきたのか、そして、新聞という媒体はどのように進化してきたのかをご紹介します。

00001 創刊号

情報を誰にでも平等に

読売新聞は1874年、現在の東京・港区虎ノ門で、日本初の本格的な大衆啓発紙として誕生しました。題号は、江戸時代の「読みながら売る」瓦版の販売方式に由来しています。
既存の新聞が民撰議院設立建白書をめぐる政論をたたかわせる中、読売新聞は市井の出来事を主とし、庶民層に親しまれました。売り物は、漢字の「傍訓」でした。これは、単に漢字の読み方を示すのではなく、話し言葉に近づけてわかりやすく意味を説明するもので、例えば、「政府」に「おかみ」、「俳優」には「やくしゃ」という傍訓をふっていました。
当初は隔日刊でしたが、1875年(明治8年)5月から日刊になりました。創刊時に約200部だった発行部数は、この頃には1万部に達し、1875年の年間発行部数は他の新聞を上回り、トップになりました。

この頃の新聞

創刊号は半紙大(縦28.7センチ・横35.5センチ)の大きさ、表裏2ページ。定価は1枚8厘、月10銭。紙面は布告(おふれ)・新聞・説話(はなし)・稟告(しらせ)の4欄に分かれていました。1876年1月には、横長だった紙面を縦長にして4ページに倍増しました。広告は創刊間もない1874年末から出始め、書籍、お茶屋の開店、外国語教授の案内などが掲載されました。

10000 号〜

独自の展開で読者を魅了

1万号が発行されたのは、日露戦争(1904年2月~1905年9月)の最中で、戦況を伝える記事が2面に掲載されています。当時は1面にニュースを載せる慣行がなく、1面のトップは「一萬號(まんごう)」を記念する漢詩でした。
明治時代の読売新聞は、文芸を重視した紙面づくりに特色がありました。尾崎紅葉の「金色夜叉」など文学史に残る小説を次々と連載し、日露戦争が起こるとロシア文学の現状を紹介し、ゴーリキーらの作品を掲載しました。
大正時代に入ると、新聞界初の女性のページを創設しました。1914年(大正3年)4月にスタートした「よみうり婦人附録」で、流行記事や暮らしのヒントなどが人気を呼びました。翌月に始まった「身の上相談」はその後、タイトルを変え、現在の「人生案内」につながっています。

この頃の新聞

1894年(明治27年)8月の日清戦争開戦をきっかけに、記事量の増加に対応するため、紙面を縦53.1センチ、横37.3センチに拡大し、6ページに増やしました。1914年4月の婦人附録開始に伴い、8ページになりました。

20000 号〜

新聞の公共性を重視する

2万号は、満州事変勃発(1931年9月)の翌年に発行されました。満州事変に関するリットン報告書に反論するため、松岡洋右代表が国際連盟総会に向け、東京駅を出発したことを2面で伝えています。1面は全面広告でした。
この時期には、新聞の発行体制やページ構成に大きな変化がありました。1931年(昭和6年)11月に夕刊の発行を始め、戦況の速報体制を整えました。その前には、娯楽色の強い日曜夕刊を1926年(大正15年)1月から発行していました。また、1937年(昭和12年)元日からは朝刊1面にニュース記事を掲載するようになりました。大正中期以降、新聞界では1面全面を広告で埋めることが慣行となっていましたが、報道すべき事象が国内外で激増しているという時代認識から転換しました。新聞の公共性を重視し、報道機関としての責務を果たそうとした結果でした。

この頃の新聞

夕刊の発刊にあわせて朝刊紙面も改め、「社説」を常設しました。発行部数は増加の一途をたどり、1933年(昭和8年)に約50万部まで伸び、1938年(昭和13年)に100万部を突破しました。

30000 号〜

全国ネットワーク化の展開

3万号の1面トップは、ソ連を偵察飛行していた米国の偵察機が撃墜された「U2機撃墜事件」をめぐる国会論議でした。当時は東西冷戦下で、国際情勢は緊張の度を増していました。国内は高度経済成長期(1955~73年)にあり、読売新聞は、1952年(昭和27年)の大阪進出に続き、北海道(1959年)と北陸(1961年)で現地印刷を始め、1964年(昭和39年)に九州に進出するなど、名実ともに全国紙としての態勢を整えていく過程にありました。1955年(昭和30年)にはオーストラリアのアジア出版社東京支社が発行していた日刊英字新聞「Japan News」を買収し、題号をそのまま継承して創刊しました。現在は「The Japan News」の題号で発行しています。

この頃の新聞

高度経済成長期は、核家族化による世帯増の時代でもありました。部数増とページ増に対応するため、印刷体制を増強しました。1956年(昭和31年)に輪転機を増設して朝刊12ページの印刷能力を確保し、1963年(昭和38年)には新たな工場を稼働させ、16ページの印刷を可能にしました。

40000 号〜

報道体制に厚み、大きな反響呼ぶ

4万号が発行された1987年はバブル経済の真っただ中でした。1面トップは、ある金融機関による不動産関連企業グループに対する過剰融資が大蔵省(現財務省)の検査で判明したと伝えるスクープ記事でした。
1978年(昭和53年)には、ギネスブックで「世界最大の発行部数を持つ新聞」として認定され、1986年(昭和61年)には900万部を超えました。報道体制も厚みを増し、スクープや大型連載、各国首脳との単独会見などを次々と掲載して大きな反響を呼びました。発行部数はその後も伸び、1994年(平成6年)には1000万部の大台に乗りました。

この頃の新聞

コンピューター技術の発展を受け、1986年(昭和61年)、それまでの活版・紙型鉛版方式から、全工程をコンピューター化したシステムを導入しました。記事の執筆方法も変化し、「紙とペン」からワープロに移行しました。

50000 号〜

未来を拓く

5万号は、戦後70年を迎えた年に発行されました。1面には、平成の天皇、皇后両陛下が「慰霊の旅」で、西太平洋のパラオに訪問されたことを伝える記事が掲載されました。
読売新聞は2014年(平成26年)に創刊140年の節目を迎え、記念事業の目玉として読売中高生新聞を発刊しました。2011年(平成23年)に発刊した読売KODOMO新聞に続く新しい媒体で、今では、それぞれ小学生向け新聞、中高生向け新聞として、日本で最も多く小中高生らに読まれています。

この頃の新聞

正確で価値の高い記事を提供して読者の信頼にこたえ続けるため、2013年(平成25年)、「記者教育実行委員会(記者塾)」を新設しました。記者塾では、記者の年次や職務に応じた教育を実施しています。2014年(平成26年)には「適正報道委員会」を設置し、調査報道や独自取材などによる重要な記事を掲載する前に、第三者的な立場から記事の内容が適切であるかどうかをチェックしています。

いま・これから

150年以上の歴史を持つ読売新聞。これまで培ってきた取材力やコンテンツ力を活かし、デジタル化が進み、読者のニーズも多様化している現代でどのようなサービスを提供しているのか、さまざまな取り組みをご紹介します。

  • 多様なメディアで 伝える、届ける

    • プロフェッショナルに向けて

      「DOW JONES 読売新聞 Pro 」

      2025年4月にスタートした新媒体。「今」の先にある「これから」を考える企業の経営判断や組織の意思決定を支援し、国内の企業や組織の活動を海外にも正確に発信して日本への理解を促進します。

      DOW JONES 読売新聞 Pro
    • 次世代に向けて

      「読売KODOMO新聞」
      「読売中高生新聞」

      小学生から中高生まで、その年代の興味に応じたニュース、学習、趣味、芸能などを紙面でお届けします。週1回発行です。

    • 多様な人へ

      「大手小町」「ヨミドクター」
      「防災ニッポン」「マリ・クレール」

      だれかに相談したい、病気の悩み、まさかの備え、流行の先端へ--。
      そんな時に頼れるサイト、記事、刊行物もそろっています!

  • 統合型 マーケティング コミュニケーション

    YOMIURI X-SOLUTIONSは、新聞広告を含め、様々なメディアを組み合わせた提案に、データを活用したデジタルソリューションを新たな軸として加えることで、広告主の課題を解決するために生まれたユニットです。読売グループのメディアにとどまらず、独自の広告配信プラットフォームを核に、多様なタッチポイントを組み合わせてユーザーにメッセージを届けます。

    YOMIURI X-SOLUTIONS
  • デジタルを活用した 新たなコミュニケーションの創造

    「YOMIURI BRAND STUDIO」は、読売新聞の信頼性を基盤に、読売グループの機能と知見、コンソーシアム各社の技術を融合し、企業や社会の課題を解決する組織です。
    変化する時代のあらゆるニーズに応えるため、プロジェクトごとに最適なチームを結成。各種コミュニケーションの戦略策定から、ウェブサイトや動画をはじめとするデジタルクリエイティブの制作、大規模イベントの企画・運営といった機能を企業や自治体などに幅広く提供し、これまでにない新たな価値を創造します。

    YOMIURI BRAND STUDIO